女の愛の確かめ方と男の愛の注ぎ方はいつでも卑劣

先日、伊東にある友人の別荘を訪れた。

別荘というと、豪邸、あるいは今期のテラスハウスのようなおしゃれな建物というイメージがあったが、ここはそのどちらにも当てはまらない。

小高い山の上にある単なる一軒家で、どちらかといえばボロい。

いまはだいぶ友人によって整備されたが、2年前に初めて行ったときには玄関まで草木が生い茂っていて、「藤岡弘、探検隊」のように長く伸び放題の枝や草をかき分けながらやっとの思いで家の中に入らねばならないほど、とにかく別荘というもののイメージからはかけ離れたものだった。

だから、自分は非常に気に入った。

 

 

友人宅の事情でこの別荘は20年以上前からほとんど誰も訪れていない。

そのため家の中は時が止まっている。

90年代半ばのまっぷるやタウンページ、広末涼子のVHS、棚の中の郵便物の日付は80年代、黒電話やレコードもある。初めて100円札を生で見たのもこの別荘だった。

見る人が見れば宝の山である。

 

そしてその宝の中でもっとも自分の興味をそそったのは、本棚だった。

漫画や小説がきれいに並べられていて、よく知っているものから、全く聞いたことのないものまであり、全て20年以上前に刊行されたものだった。

自分はこの別荘には年に1〜2度ほど訪れるのだが、そのたびに少しずつその本棚の小説や漫画を読み進めていた。

 

今回の旅では、原秀則の「部屋においでよ」と「いつでも夢を」という漫画を読んだ。

本当に読むんじゃなかったと思っている。

 

この2作について感じたことを残しておこうと思って、いまこうして文章を書いているのだが、あまり深くは語りたくない。

 

親しみやすい絵柄で、表紙だけを見るとラブコメに見える人もいるかもしれない。

実際にラブコメチックな展開も多く、話もわかりやすいため、スラスラと読み進めることができる。

そして気づいた時にはもう遅い。

気分はひどく落ち込んでいることだろう。

とくに「部屋においでよ」については思い出すのもしんどい。

少しあらすじを紹介する。

25歳の文(あや)と大学生のミキオは、行きつけのバーで知り合い、そのまま彼女の家で一夜を共にする。

「部屋(うち)においでよ」という文の一言から、なあなあな形で付き合い始め、ミキオは彼女の部屋に入り浸るようになる。

文はピアニストを目指しながら、ピアノ教室やホテルでの演奏などで生計を立てており、ミキオはW大に通いながらカメラマンとしての成功を夢見ていた。

すれ違いがありつつもお互いに歩み寄る。そんな日々が続いていたが、コツコツと実績を重ねた文はピアニストとしてメジャーデビューを果たすことに。

一方のミキオはカメラマンとして悩みを抱えており、徐々に文に対して嫉妬にも似たような感情を抱き始め、イラつきを爆発させてしまったミキオは距離を置きたいと文に告げる……。

 

正直に言ってしまえばよくある話だ。

しかしいまでもよくある話が20年以上前にすでに書かれているわけだから、どこか可笑しい。

電話は思ってもない形に姿を変え、テレビは驚くほど薄くなり、通貨までもがバーチャルで発行されるようになったにも関わらず、人間はどこも変わっていない。

 

いまから25年前に発売された広瀬香美の「ロマンスの神様」には、こんな歌詞がある。

 

年齢 住所 趣味に職業 さりげなくチェックしなくちゃ

待っていました 合格ライン 早くサングラス取って見せてよ

笑顔が素敵 真顔も素敵 思わず見とれてしまうの

 

ここで驚くべきは、サングラスをかけたまま数多の質問に答えていた彼ではない。

住所はさすがに時代を感じるが、年齢や趣味、職業チェックを受けたあとでないと、男は顔すら見てもらえない。

性格など触れられてすらいない。

様々な価値観が生まれているいまでも、こういう基準で未だに男を選ぶ女も少なくないと思う。

っていうか結構いると思う。

 

男は男で全く成長していない。

周りを見渡せば、職業や収入、セックスの回数で小競り合いを繰り返しているし、かく言う自分も「そんなヒエラルキーからは外れた」なんて言いつつ、やはりマウントを切られるとムカつく。

ネットにはものすごく寛大で頭の良い人たちが様々な意見を投じているけれど、パンピーの世界には全然それは浸透していない。

自分の会社はベンチャーだが、中身は人も業務も精神も昭和だ。

ただ業界がネットという比較的新しい分野なだけで、他は80年代の中小企業と何ら変わりはない。

 

あの伊東の別荘と同じように20年前から変わったことなど、実はほとんどないのだと思う。

 

先に紹介した「部屋へおいでよ」の結末は、それはとても寂しい。

切なくて、切なくて、切ない。

個人的にはエグいほどのバッドエンドである。

とにかく男女はすれ違い続ける。

別れが近づくと、それぞれのタイミングで女は愛を確かめようとするし、男は愛を注ごうとする。

その”それぞれのタイミング”が醜いほどに悪い。

言うなれば卑劣だ。

漫画の中だけの話なのであればいい。

でも、このすれ違いは、いつでも、どこでも、この瞬間に起こっていそうで、怖い。