さくらももこが、死んだ。
さくらももこが、死んだ。
有名人が死んで、こんなに悲しかったのは児玉清以来だった。
さくらももこの作品をすごく読んでいた、というわけでもない。
本業?の漫画よりもエッセイの方を読んでいる。
いまSNSで話題になっているコジコジなる作品も、実は全然読んでなくて、よくわからない。
でも、こんなにも胸が締め付けられているのはどうしてなんだろう。
一番読み返したのは「さるのこしかけ」。
インド旅行の話をはじめ遠藤周作にさくらももこが振り回される「遠藤周作先生」、結婚後に実家に帰ったときのことをそのまま書いたであろう「実家に帰る」。
中でも「いさおくんがいた日々」は、このエッセイを読んだ人なら、読み返せば必ず「ああ、これか」となる話だ。
自分はこのエッセイが好きだ。
他のエッセイと何が違うと言われると、はっきりとそれを伝えることはできない。
笑える話もあれば、泣ける話もあるのは、どのエッセイも同じだ。
でもこの「さるのこしかけ」だけは、読んでいると幸せな心持ちになる。
そしてすべて読み終わり、本を閉じるともう一度「ふふっ」と笑い、そのあとで泣いてしまいそうになる。
そんな本だ。
この本が好きな理由をなんとか言葉にして伝えることはできると思う。
でもそれを口に出したり、文章に書き残してしまうとそれで終わってしまいそうな気がする。
どういうところがそう感じられるのか語るとき、その瞬間、一気にその新鮮さというか、とにかく何かがなくなってしまう気がして怖い。
自分にとっても他人にとっても。
一度そういう書評みたいなのを目にしてしまうと、フラットに読もうとしても、それを語った語り手のことや書いてあった内容を思い出したりして、何もない"ただ読む"という状態からは引き離されてしまう。
そして語った側も、自分が語ったようにしか読めなくなるだろう。
読んでいるときの自分の心情とか状況とかで、印象はいくらでも変わるかもしれない。
それを一つの枠におさめてしまうのは、すごくもったいないことだ。
別に自分に影響力があるとは思っていない。
でもこういうところで読んだものって、けっこう覚えているものだし、書き手がどう言う人かわからなくても、けっこう印象に残ってしまうことっていうのは、誰にでもあるはずだ。
ただ自分は「さるのこしかけ」が好き。
ここではそれだけ伝わればいい。
それに、さくらももこは、ただ「好き」とか「楽しかった」とか、そういうのを誰かに伝えたかっただけの人だと思う。
さくらももこの文章は、淡々とした調子だが、そのときに思った心情や風景をそのまま書き起こす。
それは、とてもきれいだ。
「面白い話があるんだけどさ」という強要めいた文章は一切ない。
「私は面白いと思う」ということをただひたすら書いているだけだ。
読み手に対して「面白いでしょ?」みたいな感じも一切ない。
平坦で誰でも読める文章だから、読んでいると自分の体験みたいに感じられるのかもしれない。
たまに読み返したあとで、さくらももこと自分が会ったらどんな話をするだろう、と夢想することがある。
大した話はしないだろうし、第一、うまく話せるかどうかもわからない。
もしかしたら、話すことなどないのかもしれない。
たださくらももこがそこにいて、自分は「さくらももこだ」とひたすらに心の中で唱えるだけかもしれない。
自分が好きで好きでたまらない人と会っても、実は話すことってそんなにない。
でももし会えたら、きっとありがとうと繰り返した気がする。
こんな本を作ってくれて、書いてくれて、ありがとう、ありがとう。
とにかく幸せな気持ちになりました。
ありがとう、ありがとう。
きっとさくらももこは、ちょっと困ったように笑うと思う。
「まる子にそっくりだね」
夏休みの宿題を最後まで残しに残し、泣きながら親に手伝ってもらったことがある。
そのときの母から罵られたときの言葉のひとつだ。
「今後はこうしなさい」とかいう具体的なありがたい親からの助言もいただいていたとは思うが、一切記憶にない。
ただ不思議とその言葉だけは覚えていて、いまもたまに思い出す。
さくらももこにものすごく救われたとか、勉強になったとか、そういう印象はない。
でもそのときからずっと一緒にいた気がする。
さくらももこの言葉に「救われた」という人があふれている。
でも自分は、それはちょっと違うと思っている。
救われたんじゃなくて、自分が思っていたことを自分の好きな人が言っていたから、勇気が湧いたんだと思う。
何が言いたいのかは正直、自分でもわからない。
でもいまはとにかく寂しい。寂しくて仕方がない。
とにかくいま思い浮かんださくらももこのことを書いていたらこうなった。
あ、一つ書き忘れた。
自分はあまり芸能人や有名人に「さん」付けをするのが好きじゃない。
尊敬しているからこそ、「さん」と気軽に呼びたくない。
「さん」付けすることで、なんだか勝手に近づいていてしまった気がするからだ。
いつか会って話した時に、「さん」と付けることにしている。
だから、現世でさくらももこについて話すとき、「さん」付けして呼ぶことはないだろう。
それを心から寂しいと思う。